それは俺が高校2年の秋の夜のことだった。
ふとしたことから俺の両親が、パソコンを買ってくれることが決まった。
詳しい理由については、就職活動体験日記のプロローグをご覧いただくとして、その日から俺は、パソコンの研究に没頭し始めた。
当時全くパソコンについて知識がなかった俺にとって、アマチュア無線はここでも威力を発揮してくれた。栃木学生集団の中には、パソコンにも詳しいやつがいて、そいつから俺は、パソコンについていろいろと教えてもらうことができたのである。
今でこそ10万円も出せば、立派なマシーンを購入できるが、この当時はいくらパソコンの普及が進んでいるとはいえ、それはまだまだ高価なもので、新品のもので安いものを探しても、20万円を超える値段が付けられていた。
そんな高級なものを買ってもらえるのだから、やはり自分の気に入ったものを選ぼうと、俺は毎日のようにいろいろと友達から話を聞いたり、先生からの情報を頼りにして機種選びをした。
そこまでは俺もまだパソコンが手元に来ていなかったので、毎日のように無線に出てきては友達との会話を楽しんでいた。
ところが2月のある日、いよいよ待ちに待ったパソコンが到着した。
それからである、センターである俺のアクティビティーがどんどん下がりだしてしまった。
しかもパソコンというものは、一つでも設定を間違うと、絶対に正しくは動作してくれないから、マニュアル片手に夜遅くまでパソコンにかかり切りの日々が続いてしまった。
もちろんその間は、友達からの再三のワン切りにも応答できないことになるし、もしできたとしても、設定を途中で中断してしまうと、何処までやったかが分からなくなって命取りになる可能性があるので、無線にはほとんどでなくなってしまった。
そうなってくると前の項でも書いたように、暇になって無線をつけて、誰かを呼び出そうとしたメンバーは、誰もいないのでどんどん無線から離れていってしまうことになる。
俺はパソコンに夢中になりすぎたあまり、そんな集団の危機にも全く気づくことができなかった。
俺がこれに気がついたのは、パソコンにある程度慣れ、少し余裕を持つことのできるようになったその年の5月頃だった。
しかし時すでに遅し、栃木学生集団のメンバーのほとんどがほかの趣味を見つけてしまったり、携帯電話中心の生活を始めてしまったのである。
もちろん俺はこれに対して、そのときまで残っていてくれた仲間とともに復活ののろしを上げて全力で取り組んでみたが、とうとう高校3年の夏休みが終わる頃には、多いときでも3人が集まればいい方で、誰も無線に出てこない休日の夜を迎えることすらあるような状態になってしまった。
そしてこの時以来、栃木学生集団が以前のような活気を取り戻すことは無かったのである。
俺は今、視覚障害者のためのパソコンサポートの仕事に就くための道を一歩一歩進んでいる。
そして同じように、仲間達はみんなそれぞれの道でがんばっていることだろう。
当時仲良くしてくれていたメンバーのほとんどが連絡不可能になってしまった。
しかし、当時の思い出と、みんなと過ごした楽しい時間は、今も、そしていつまでも、俺の中で確かな勇気と自信を与え続けてくれている。
「何言っているんだよ。俺たち友達だろう。」