嬉しいいたずら



私は両目の視力が全くないため、盲学校に通っています。盲学校は宇都宮市の西はずれに位置し、豊かな自然に囲まれていますが、その反面交通が不便です。従って、一般に、盲学校がどこにあり、どんな学校で、どういう生徒がいるか、あまり知られていないと思います。それは、視覚障害者に対する理解がされにくいことにつながるのではないかと思うのです。
 さて、健常者の視覚障害者に対する接し方について、私が考えさせられた出来事がありました。それは、他の中学校との交流会でのことでした。私は、交流会前日からいろいろ心配をしていました。小学生の時の交流会のように、みんなの行動する早さに着いていけるだろうか、話に着いていけるだろうかなど、とても不安でした。ところが、行ってみるとその心配は必要のないものでした。そこには、優しく迎えてくれる交流校の友達がいました。私の手引きから身の回りの世話まで、面倒を見てくれました。私は、みんなの心配りを大変ありがたく思いましたが、その一方では、何か心に引っかかるものもあったのです。
 次の日、担任の先生に、
「おまえたちは、あのように何でもしてもらって嬉しいか。」
と言われました。私は、そのとき、交流会で引っかかっていた者が何であったか、はっきりわかりました。私は、これまで健常者に何でもしてもらうのが当たり前でした。そして、健常者は、私たち視覚障害者が何を必要としているか理解している者と、勝手に思いこんでいました。しかし、よく考えてみると、何でもしてもらうことは、そんなに嬉しいことではなかったのです。この時以来、交流学習に行くたびに、この心のもやもやは、しばらくの間消えませんでした。
 ところが、私が中学2年生のクリスマスのことでした。アマチュア無線の友達から、クリスマスパーティーにこないかと招待されました。その友達とは1度だけ合ったことがあるので、行くことにしました。パーティーの日、私が席に着くと友達は、
「TomG君、お寿司があるけど何がいい。」
と聞いてくれたので、刺身類はやめてほしいと言いました。そして、この友達を信じて、皿にのっているお寿司を食べました。ところが、何か異様な味がしたのです。その瞬間みんなの笑い声がしました。
「TomG君、まんまといたずらに引っかかったね。」
その言葉を聞いたとき、私は確かにとても悔しかったのですが、それ以上に、今までに感じたことのない嬉しさを覚えました。なぜなら、いたずらした友達が、私を普通の友達としてみてくれたと感じたからです。目の見えない者にとって、食べ物のいたずらは残酷な者です。本当ならば、嬉しいはずがありません。しかし、何でもしてもらい、気を遣ってもらうことに慣れきっていた私には、そのいたずらが新鮮に感じられ、わくわくするものに思えたのです。第一、そのいたずらに悪意を全く感じませんでした。私は友達に
「目の見えない人って、何もできないと思う?」
と聞いてみました。
「TomG君を見ていると、そんなことは全く感じないよ。最初はそう思ったけど、君を見ていて、目の見えない人は、ただ目が見えないだけなんだと思ったよ。」
と言ってくれました。私は、ますます嬉しくて、心の中で何度もお礼を言いました。
 このようなことがあってから、私は、障害者の人権を守るとはどういうことなのか考えるようになりました。それは、障害者にとって何ができ、何を必要としているのかを、理解して接することではないかと思うのです。そして、私たち障害者も広く社会に参加し、いろいろな人たちとふれあう機会を多く持たなければ、健常者と本当に理解し合うことは、できないと感じました。
 このことから私は、今まで以上に交流の場を大切にして、自分の障害について理解してもらおうと努力しています。

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