幼稚部1年生


 昭和61年4月、私は栃木県立盲学校の幼稚部1年生になった。
小さかったので入学式のことなどはあまり覚えていないのだが、なんだかおもちゃがたくさんある部屋に入って、新しい先生を紹介されたようなことはうっすらと覚えている。
 栃木県立盲学校は、栃木県宇都宮市にある。宇都宮市は栃木県の県庁所在地なのだが、だからといって学校が町中にあるわけではない。私の実家と同じぐらいの田舎で、宇都宮駅からスクールバスで40分もかかる非常に不便な場所にあった。
しかし、栃木県には盲学校がこの1校だけであったため、県内のほぼ全域から生徒が通学してきており、周りの人が話している言葉が家の方とはかなり違っていた。
栃木県というのは非常に不思議な県で、ある人は東北地方の仲間だと言い、ある人は立派な関東地方だと言っている。
もちろん行政区分は関東地方であるが、北と南ではかなり文化も言葉も違っている。
だから県南のうちの方と県北の那須町などは、しゃべり方から言葉までかなりの違いがある。
言葉が通じないと言うことでもないのだが、ともかく東北地方と関東地方の違いぐらいだとは覚悟して頂きたい。
そうすると、この盲学校ではどんな言葉で生徒が会話しているかというと、俗に言うところの「標準語」とか「共通語」といわれる言葉である。
 農村育ちの私にとって、これはけっこうなカルチャーショックだった。特に他の人が遊んでいるところに「仲間に入れて」という意味で使う言葉の
「すえて」というのが通じないのには驚いてしまった。
これは完璧な二宮方言で、今考えてみると通じなくて当然なのだが、当時の私にはまるで外国にでも来たように思ったのだろう。でも、自然と心細さや不安は全く感じていなかった。
それよりも楽しいおもちゃがいっぱいで、優しい女の先生がいて、結構うきうきしていた。
もちろんそのときは、これから大好きなお母さんが私を一人にして家に帰ってしまうなどということは思っても見なかったことなのだが・・・。
そのことについては事項で詳しくふれるのでここでは省略する。

 さて、盲学校の幼稚部というところは、私にとってけっこう面白いところだった。家にはなかった大きなステレオシステムが置いてあり、たくさんのお話のレコードやカセットテープもあった。
そして常に私のそばには優しい先生がいた。

 幼稚部1年生では、点線の書かれた紙の上を、点線の通りに正しく指でなでる練習とか、転がっていくボールの音を追いかけて拾ってくる練習などをやっていた。
玉差しという穴の空いた板の上に大きな玉の付いたピンを刺していき、いろいろな形を作る練習などもやっていた。
私がうまくできるたびに、先生は今考えると大げさなぐらい私をほめてくれ、本当はいけなかったかもしれないのだが、調子がいいときには飴をくれたりもした。
今考えてみればこれらの練習は、点字の触読の基礎練習だったり、歩行訓練の基礎練習だったり、図形認識の訓練だったりしたのだが、そんなこととはいざ知らず、私は先生にうまく勉強させられていたのだと思う。
まぁそのおかげで、今こうしてほとんど不自由なく一人暮らしができたりするのではないかと思うのだが・・・。
 さて、幼稚部と言うところは、こんな風に訓練や勉強ばかりやっているところかというと決してそうではない。1日3時間あるうちの1時間ぐらいはそういう訓練をやっていたが、残りの2時間はお話のレコードを聴いたり、クラスメイトとブロック遊びをしたり、散歩に出かけたり校庭の遊具で遊んだりの時間だった。
その年には学校祭もあったため、それに向けての劇の練習をやったり、寒い冬の日など校庭で焼き芋大会をしたこともあった。
また、幼稚部の教室の隅にゆったりと座ってゆらゆら動くシーソーが置いてあり、それを電車や飛行機にして私が運転手をやり、乗り物ごっこなんかもやって遊んでいた。

クラスメイトは晴美ちゃんという女の子と、ゆきちゃんという男の子の二人だった。晴美ちゃんはかなりの泣き虫で、学校でもしょっちゅう家に帰りたいといって泣いていた。でも、私は保育園でずっと生活していたから、お母さんのいない昼間にはすっかり慣れっこになっていたため、いつも晴美ちゃんを慰めていた。
そのころから機械いじりが好きだった私は、晴美ちゃんが泣くと、すぐに大好きな音楽をかけて、
「晴美ちゃん泣かないの。お母さん午後には迎えに来てくれるんだからね。」
と言っていた。でも、心の中では、
「晴美ちゃんはいいなぁ、お母さん午後には迎えに来てくれるんだもん」
と思っていた。


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