このころのトップニュースは、イラクがクウェートを侵略したことによって起きた湾岸戦争だった。
私たちにはあまり世界情勢は分からなかったが、3年生の社会を担当してくれた先生が、高等部から来た先生で、私たちに湾岸戦争がなぜ起きてしまったのか、そして本当はどのように解決していけばよかったかなど、丁寧に教えてくれたので、何とか大体の流れ程度はつかんでいた。
そのときに私が考えていたのは、
「たしかにイラクは悪いけど、多国籍軍は一人を相手にたくさんで戦っているんだから卑怯だ」
ということと、
「アメリカは自分のところが戦地になっていないからいいけど、イラクの国民は何もしていないのに、戦争の被害に遭ってしまってかわいそうだ」
ということだった。
しかし、子供というのはこういう世間で大きく話題になっていることがあると遊びに取り入れようとするもので、やはりこのとき寄宿舎では「戦争ごっこ」が始まっていた。
もちろん敵に回すのは先生で、ヤクルトの容器を切り抜いて作ったミサイルを、棒にゴムを付けて作った道具で飛ばして攻撃していた。
そんなある日、何も悪いことをしていない人が、私たちが大嫌いだった先生に、 気分で怒られてしまった。
その上、他の先生も怒られた仲間から十分に説明を聞かないまま、そいつが悪いことに決めつけ、先生方何人かでよってたかってやったのである。
そのことが原因で、私たちは先生と徹底的に戦うことになったのである。
このときは私の部屋が基地となり、先生が集会に行ってしまった時間や、食堂に配膳に行ってしまって小学部棟から姿を消した隙をねらって、ヤクルトの容器を切り抜いてミサイルを作ったり、石鹸を水に溶かしてそれを水鉄砲に入れ、すぐに戦闘体制に入れるように蓄えておいたりした。
先生に打ち込んだミサイルは、回収されてしまって2度と戻ってくることはないので、たくさん用意しておかないとすぐになくなってしまう。また、ミサイルの材料も限られていたので、何とか他のことも考える必要があり、水道さえひねれば出てくる水は格好の攻撃道具として使われた。
私たち小学生は、夏になると必ずと言っていいほど水鉄砲遊びをやっていたから、水鉄砲の方もかなりの数が用意されていた。
また、「ゴムでできた蛇のおもちゃ」とか、「ナメクジのおもちゃ」などの、気持ち悪い物体も攻撃道具として使われた。
そんなわけで私たちは変更した規則を元に戻すように、1週間ぐらい先生とは全面的に対決姿勢を取っていたのだが、そんなとき、湾岸戦争が終わったというニュースを見た当時の小学部長が、
「なぁ、俺たちもやめよう。こうやって先生と徹底抗戦しても負けるに決まってるし、イラクの子供達が本気で苦しんでいるのに、戦争を遊び半分でやるのは良くないよ」
といって、戦いの終了を宣言した。
その代わり、次の日に臨時の小学部会を招集し、先生とゆっくり時間をかけて話し合うことになったのである。
残念ながらそのときはいろいろと理由を付けて先生は謝ってくれなかったが、小学部長が会議の最後に言った言葉、
「先生は卑怯だ。謝ってくれればそれでいいのに、一人じゃ勝てないとなるとすぐに他の先生を呼ぶんだもん。」
を聞いて、みんな一斉に悔し涙を流したのだった。