戦艦大和


 壊れない秘密基地を作りたいということで、設計図まで引いた私たちだったが、あえなく先生に反対されてしまったため、その計画は中止しなくてはならないことになってしまっていた。
しかし、ある日、孝君が戦艦大和のプラモデルを買ってきた。
そして、「これに乗れたらなぁ」などと言い出したことからこの壮大な計画は始まった。
工作大好きな私たちのこと、孝君のその計画にはもちろん大賛成だった。
そして次の週に行われた小学部会の場で、正式に大型の船、「戦艦大和」を作ることを提案した。
 寄宿舎では毎週2回、クラブ活動というものが行われており、その中の1日は「図工クラブ」ということになっていた。
その時間にみんなで戦艦大和を作ろうと提案したのである。
その計画はすぐに採用され、4人ぐらい乗れるような大きな船を作るプロジェクトがその日の内に小学部会を通過した。
 しかし、作るとは決まったものの、小学生だけではどうすることもできず、手順について毎週のクラブの中であれこれと話し合いが行われていた。
そのうちにやっぱり駄目だということになり、結局戦艦大和計画は「船の中に積むコンピューターの製作」に変わってしまうところだった。
実際このコンピューター作りに半年ほど費やしてしまい、その間に発案者の孝君は卒業してしまった。
そんな私たちの強い味方になってくれたのは佐々木先生だった。
クラブの話し合いの中では設計図を引くのを手伝ってくれるという話だったのだが、ある日突然寄宿舎の前に、近くの田所製作所という木工所のトラックが現れ、何やら船のような形をした物体を運んできたのである。
それはなんと、私たちの考えていた戦艦大和の「骨組み部分」だった。
 その日から私たちは毎週、その骨組みにベニヤ板を切って打ち付けたり、みんなが乗っても壊れないように、船底の形に板を切り、ボンドで貼り付けて補強作業をしたりした。
その年に行われた学校祭にこの船を展示するために、船の下に空き缶で作った波を置き、その上にブルーのビニールをかぶせて、船が海を走っているような風景をデザインしたりもした。
 そんな風にして1年近く経過した3年生の冬、とうとう仕上げのキャスター付けが終わり、初めてこの船に乗って道路を回ったときは、みんな大きな歓声を上げた。
その次の週、私たちは1年半の苦労の末完成した戦艦大和を取り囲んで写真を撮り、手作りの草餅を食べながら進水式をやって完成を祝った。
この船には完成当初の目標通り、4人以上の大人が乗ることができたので、それから何度も何度も私たちはクラブの時間、この船に乗って学校中を回ったり、本当はいけなかったのかも知れないが近くのお店までみんなで買い物に行ったりした。
そしてこの船は、今でも小学部生の大きなおもちゃとして、築山のトンネルの中に置かれている。
時々小学生がこれに乗って遊んでいるところを見ると、あのころのことを思い出してとても懐かしい気分になる。


次へ

自伝の目次に戻る

エッセーコーナーに戻る

トップページに戻る