中学生になりたくない症候群


 私は小さいときから運動が嫌いだったので、中学生になることを意識し始めた小学校6年生の後半から、そのことを考えると毎日が憂鬱でたまらなかった。
栃木県立盲学校の中学部は人数が少なく、バレーなどの人数確保が難しいため、ほとんど無理矢理バレー部には入らなければならなかった。
体育の時間だけでも十分なのに、放課後まで嫌いな運動をさせられるかと思うと、私は気が重かった。
その上、もしかすると高等部までもが、バレー部への参加を強制するかも知れないと言う話まで出てきていたから、本当にお先真っ暗という感じだった。
また、中学生になると嫌いな算数をもっと難しくした「数学」というものが始まることも私の気分を圧迫していた。
それに、一つ上の先輩方から聞く話も、私のこの病気を悪化させるものばかりだった。
 給食で嫌いなものが出ると、全部食べるまで帰らせてくれないとか、小学部に比べて何かと怒られることが多くなったとか、先生によっては毎日学級日誌を書かせる先生がいるなど、本当にいやな話ばかりだった。
事実、何人かの先輩が食堂に残されて先生に絞られているところを見たことがあったし、中学部の前の廊下を通ると何となく張りつめたような雰囲気がするような気がしていた。
だから私は機会あるごとに「中学生になりたくない」と言っていたのである。
 そんな私を見て、周りの大人は口をそろえて、
「これからの6年間がいやだなんて。一番楽しい時期なのに」
と言っていた。
しかし、私は放課後毎日嫌いな運動をさせられる日々を想像しただけで、そんな言葉は普通学校にしか当てはまらないんだとタカをくくり、ますます中学部に行きたくない症候群を悪化させるのだった。
そんな私の唯一の救いは、中学生になると寄宿舎の日課が小学生よりも緩くなり、CDラジカセの持ち込み、ポットやお茶セットの持ち込みなどが許可されると言うことだった。
もちろん私は、中学生になったら大きなラジカセと性能のいいマイクを持ち込んで、ミニFM放送を本格的にやろうとたくらんでいた。
そして、そのとき小学生と仲が良かった先輩が同じことを考えており、何とかその先輩と部屋を一緒にしてもらえるように、部屋割り委員の先輩に頼み込んでいたのである。
 その年の春休みを、私は大変な思いをする前の長い休息時間だと思い、勉強など全くしないで好きなラジオを聞いたり、夜更かししたりして、自分なりに精一杯楽しくすごそうと考えた。
しかしこればっかりは日本の義務教育、いやでも何でも時々刻々とその地獄の日々は近づいてくるのだった。
まさかそのときは、中学時代に無線の免許を取得し、多くの出会いを経験し、高校生時代には部活が大好きになるなどとは全く予想していなかった。


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