乳母車におもちゃを結んで


 こんな風に祖父母から孫として見てもらえなかった私を、両親は忙しい仕事の間一人で遊ばせておくために、いろいろな工夫をした。 目の見えない私は、基本的に音の出るおもちゃが大好きだったから、振ると音がする「がらがら」とか、起き上がりこぼしのひよこのおもちゃで動くと「ちりんちりん」と音がするものなどをたくさん用意してくれた。
そして私が手を離してもすぐにそれがどこかに行ってしまわないように、乳母車の前のハンドル部分にゴムひもを付け、私の手の高さに常におもちゃがあるように考えてくれた。
最初の頃は自分の好きなおもちゃを見つけることができなくてしょっちゅう泣き叫んでいた私だったが、慣れてくるうちにおもちゃは手を離しても必ず自分のところに戻ってくると分かったらしく、いろいろなおもちゃの中から自分の好きなおもちゃを探し出して遊ぶこともできるようになっていったという。
 それから、私の家ではスイカを作っていたので、その時期になると兄と二人を、大型のスイカの段ボール箱を改良して作った箱の中に寝かせ、おもちゃがその辺に転がっていってしまわないように工夫してくれた。
読者の皆さんの中には
「小さな子供を箱に閉じこめてかわいそう」
などと考える方もいらっしゃると思うが、私と兄が二人で遊んでいた箱は、父の特製の箱で、そんなに深くもなく、ふたも着いていなかった。
当時4歳だった兄は一人で箱から出ることができたぐらいだ。
つまりどこかにおもちゃが転がっていかないようにと、それから私がごろごろとどこかに転がってしまって、危ないものにぶつかってしまわないようにという工夫だったのである。
それから私に絵本を読んでくれるときなど、母は必ず東京の点字図書館からさわる絵本といわれる、絵がさわって分かるように改良された本を借りて、私にいろいろな絵を触らせてくれながら話を聞かせてくれた。
そんな風にして私は、2歳をちょっと過ぎるまで両親の働いているすぐそばで兄と一緒に遊んでいたのだった。


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