ミニFMと私の寄宿舎生活


 中学生時代から高校生時代に書けて、私がもっともはまりこんだもの。それはアマチュア無線とミニFMだった。
アマチュア無線については俺とアマチュア無線というエッセーを別のところで書いているのでそちらをご覧いただくとして、ここではミニFMと私の寄宿舎生活について書いていこうと思う。
なお、ミニFMに関する技術的なことや放送テクニックなどのお話は、これもまた全く別コーナーのミニFM実践マニュアルに詳しく書いたのでそちらを参照して欲しい。
 小学6年生で最初のミニFMを始めた私は、そのときに私たちのFM放送を手伝ってくれた気の合う先輩と、中学1年生の時一緒の部屋になることができた。
しかし最初の頃は、学校生活に慣れるので精一杯で、ミニFMをまた再会する余裕はほとんど無かった。
しかし、先輩の方は早くミニFMをやりたいと私に言っており、その年の4月に行われた舎生会総会で、「放送クラブ」の発足宣言を出した。
前にも説明したかも知れないが、寄宿舎を管理している生徒の団体が舎生会で、その下に「クラブ」というものを作ることができた。
クラブは最低3人で作成できたので、もう一人の先輩に名前を貸してくれるようにお願いし、とりあえず私たちはミニFM放送のためのクラブを作ったのである。
クラブになると何がいいのか。それは舎生会の組織として認められるので、少ないながらも部費が降りるのである。
その部費はワイヤレスマイクの電池代ぐらいにはなったし、放送中のアナウンサーのジュース代に消えることも無くはなかった。
 そんなわけでとりあえず組織の立ち上げ申請をして、私が生活になれてきた5月の終わり頃から本格的に放送クラブの活動は始まった。
最初は週に1回だけの夜の放送だったのだが、先輩がどうせやるならモーニング放送も行いたいと言うことで、毎日朝8時から8時30分までの間、放送を流すことになった。
それに加えて、始めてみるとみんな番組をやりたいということになり、希望通り番組を編成したため、結局毎日のように放送をやる羽目になった。
もちろんこんな具合だから勉強をする時間など全くなくなった。その結果はどこぞやでお知らせしたとおりだった。
そこで結局放送時間は週1回に戻し、男子棟内放送と言うことで細々とやっていた。
 そんなとき、私はとある先生から面白い機械があるという話を聞いた。
それはトランスミッタといって、その機械にオーディオ機器を接続すると、そこから出た音をそのままFM電波に乗せて遅れるというものだった。
ワイヤレスマイクでも一応放送はできたのだが、音楽をかけると非常に音質が悪く、しかも酷いときには音楽がかかっているときに部屋の中で大きな音を出すと、その音が放送に乗っていってしまう。
つまり、マイクのスイッチをオフにするという基本的な動作を行えなかったのである。
このトランスミッタがあれば、音質も必ず良くなるし、FM放送では当たり前になっている「ステレオ放送」ができる。
私は早速その話に飛びつき、家に帰ると父にせがんで一緒に電器屋を回ってもらった。
ところが、そのトランスミッタという製品は何処にも売っていなかった。
地元の大きな電器店を何軒も回って、そこに置いてある取り寄せか納品のカタログを見てもらったのだが、それらしいものは全く見あたらなかった。
友達にも聞いてみたが、トランスミッタというものの名前を知っている人すらいない状態で、私は本当にこんな便利なものがあるのかと半分疑うまでになっていた。
でも、このトランスミッタという「FM放送ができる夢の機械」をあきらめたくなかった。
そこで、こうなったら電器屋の町、秋葉原に行って探してみることにした。
ちょうどそのとき、私は義眼を交換するために東京千代田区にある「日本義眼研究所」に行く用事があり、その帰りに秋葉原に寄ることができた。
ところが、電気の町秋葉原の大きな電器屋を探しても、FMトランスミッタは全く見つからなかった。すると父は、
「おめぇそれってもしかすっと法律違反の製品じゃねぇの。そうすっとなぁ、いままで歩ったでけぇ電器屋にはねえがもしんねぇ。ちっとばっかりこの裏の怪しい店に入ってみっかな。」
と言って、小さな電器屋がたくさん入っているアーケードに連れて行ってくれた。
その中の1軒目の店で聞いてみると、すぐに
「ありますよ。でもね、これはキットだよ。自分で作るやつ」
という。そこで「完成品無いんですか?」
と聞くと、やっぱりこのアーケードの中のトモカ電気という店で売っていると教えてくれた。
そして私は念願のトランスミッタを手に入れることに成功したのである。
しかもそのお値段「1980円」、これは私にとってもっとも安くて良い買い物だったと今でも思っている。
もちろん到達距離はあまり長くなかったが、ワイヤレスマイクと同じ程度の距離の放送はできたし、何よりも音楽は夢に見たステレオ、マイクもスイッチを切ればOFFにできた。
 それを使って12月の前半まで週に1回の放送を続けていたのだが、ある日番組のゲストがとんでもない発言をしてしまい、それを本人が聞いていたという事件が発生し、それが原因で放送クラブは休部することになってしまった。

 それから8ヶ月ほど過ぎた中学2年の6月、また私は無性にミニFMをやりたくなって、そのとき同室だった後輩を引き込んで放送を開始した。
そのときの放送は翌年の1月前半まで続いた。またこのときから友達の協力で、そこそこパワーの出るトランスミッタに機械を交換したことで、放送範囲は小学部棟にまで広げることができた。
しかし番組をやっていくうちにネタが尽きたことと、参加者が少なかったことで、これも終わりを迎えることになった。
中学3年の時にも見にFMの復活を試みたのだが、これは「復活スペシャル」という番組を製作したきり終わってしまった。
 次に私がミニFMを本格的に始めたのは高校1年の8月のことだった。
私の部屋に入ってきた留学生が、なんと自分の国「ケニア」でFMのDJをやっていた人で、私が中学生時代のミニFMの話をすると、彼は燃え上がり、
「機械持ってきてください。一緒に放送やりましょう」
と言うのである。そんな言葉を聞いて私のミニFM大好き精神が目を覚まさないはずもなく、その年の8月に無線関係のイベントで東京に友達と出かけた帰りに、臨時の小遣いを使ってミキサーを購入し、これまた臨時の小遣いで当時最高級品といわれたトランスミッタ「トモカTCF-600」を購入して放送を始めた。
このときに初めて女子棟までの放送が可能になったことで、私のミニFM放送は寄宿舎内と学校の一部にまで聞こえるようになった。
また、あまり大きな声では言えないのだが、寄宿舎の前の道あたりまで聞こえるようになっていたと、一部の先生方は言っていた。
またパーソナリティーも私と留学生のジェンガさん、クラスメイトのS(これまで賢ちゃんと表記)君、そして同室の兄君、それから中学生の3人組と、なんと7人という今までにない大人数で始まった。
また、中学生3人組の中には寄宿舎ミニFM始まって以来の女の子のパーソナリティーも加わっていた。
こうなってくるとやっぱり遅くまで残っている学校の先生にも放送を聞いて欲しいということになり、メンバーが学校で放送の宣伝をするようになった。
最初のうちは「先生、今日の夜7時から私ラジオに出ますので、77.5MHz聞いてください」
などと言っていたのだが、ほとんどの大人が「FMに出る」などという話を信じてくれなかったので、中学生の一人が
「先生、今日の7時頃からFMの77.5MHz聞いてください。面白い番組やってますよ。」
という風に宣伝方法を変えてみると、その日の放送が始まって、7時の中学生3人組の番組が始まった直後、いきなり学校の先生がスタジオに訪ねてきて、
「あれぇ、本当にこいつらマイクの前に座ってる。ねえねえ、どうやって放送やってるの?」
という話になった。
実は私はそのとき取材のためスタジオを離れていたのだが、トーク中に先生が入ってきたので、取材先でラジオをモニターしていてそれはしっかりと分かった。
このころからこのミニFM局は、寄宿舎の中での報道機関としての位置をしっかりと獲得してきており、マイクによる放送ではちょっと長すぎて読めないお知らせなどがあると、先生がスタジオにそれを持ってくることがあった。
また、放送は入れたが、重要なのでもう一度寄宿舎全体に知らせたいことなども、先生が原稿を持ってくることがあった。
もちろんそういうとき、私たちは絶対に原稿を読み上げることはせず、持ってきた先生に直接マイクの前に出てきてもらって話をしてもらっていた。
特に大きく特集を組んだのは「ゴミの分別」だった。
ちょうどそのころ、世間ではダイオキシンのことが社会問題になっており、学校でも焼却炉を廃止して、ゴミを業者に処理してもらうように制度が変更になった。
またそれに伴って、ゴミの分別法が今までと全く違うものに変更になったため、一人の先生をゲストにお迎えして、インタビューの形式で10分ほど特集を組んだりした。
 こんな具合でこの時期のミニFMは、1年と4ヶ月ほど続く、今まででもっとも長い期間の放送になった。
しかし、私が寄宿舎をやめてしまったため、高校2年の12月、この放送も終わりを迎える音になった。
それから寄宿舎のスタジオから、ミニFMの電波が再び発信されることはなくなったのである。


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