地獄の英語


 私の学校には、とても声が大きく、授業が厳しいことから全校生徒に恐れられている福田先生という英語の先生がいた。
この先生の授業は、教科書を一人一人読ませながら、訳を言わせるという形式で行われた。
そして訳が全く違っていたり、一つでも意味の分からない単語があると、
「このあほ〜〜、予習の一つぐれぇやってこねぇのか馬鹿たれ!!」
とか、「おめぇ単語の意味が分かんねぇで文章が訳せると思ってんのか!!」
とその棟全体に聞こえるのではないかと思うほどの大きな声で生徒を怒鳴り飛ばすのであった。
予習をやってこないで怒られるのは当然の話かも知れないのだが、人間誰でも手抜きをしたくなることがある。
一般の高校では人数も多いため、自分が授業の1時間中で1回も指されないことだってあるだろう。
ところが盲学校では、クラスは3人しかいないのだから数限りなく訳の順番は回ってくるものだ。
結局一つでも分からない単語があると、運が良いとき以外、自分に回ってくるから予習を念入りにやっておかないと思いっきり怒鳴られることは避けられなかった。
私は従来英語が苦手だったので、悪知恵を身につけるまでの数ヶ月、毎回毎回英語の時間になると何度も何度も怒鳴られ続けた。
ある時には抜き打ちテストで本当にやばい点数を取ってしまい、一時は英語の単位が取れなくて高校を卒業できないのではないかと思ったほどだった。
 しかし、人間というのは本当に適応力があるもので、こうやっていやでも勉強させられていくうちに、文章を眺めて分からない単語の意味だけしっかり調べていけば、何とか怒鳴られない程度の訳を即興で考え出せるようになっていた。
でも、これは教科書が簡単だったからこそできた技で、2年生の後半になってから難しい教科書に入ったとたん、この方法は全く使えないようになってしまっていた。
そのおかげで私は必要に迫られてパソコンを購入し、今こうしてパソコン関係の仕事を見つけて東京に出てきているのだが・・・。
あのときはこんな先生はどうにかなってしまえばいいと思ったのだが、3年間英語を教えて頂いているうちに、冗談を言い合ったり雑談をできるほどになり、今では本当にあの授業が懐かしい。
それからこの先生のおかげで、私はオーストラリア旅行を経験できたし、その他いろいろあった。この「その他いろいろ」というのは別の項で記載するのでここで詳しくは書かないことにする。
ともかくこの先生は、最初は取っつきにくかったのだが、私にとってはいろいろな意味で非常にありがたい存在だった。
私の卒業と同時に、その先生も定年を迎えて退職されたので、もうあの学校で教えてはいらっしゃらないのだが、時々「元気でいらっしゃるかな?」などと考えたりする。


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