突然した進路変更宣言


 「目の見えない人と言えば鍼灸按摩マッサージの仕事に就く」
このイメージは社会的にもかなり一般化している。
アマチュア無線の世界でも「私は目が見えません」と話すと、ほとんどの人は「じゃぁ按摩マッサージかなにかやられているんですか?」と返してくる。
視覚障害者=鍼灸按摩マッサージのイメージは、なぜここまで一般化してしまったのだろうか。
それはもっとも簡単な話で、本当に視覚障害者のほとんどがこの道に進んでいるからである。
 私もこのイメージ通り、高校2年生の3月になるまでは、高校を卒業したら鍼灸按摩マッサージの資格を取って、将来は信頼している先輩のように自分でマッサージの会社を作って、肩こりや腰痛に悩んでいる人の力になれたらと思っていた。
そんな私の気持ちを揺るがしたのはパソコンだった。
自分の言うとおりになかなか動いてくれないパソコンを前に、徹夜で作業したり、マニュアルと格闘してもどうしても分からなくていらついたりといったことは日常茶飯事だった。
私の周りにはパソコンを使っている全盲の仲間がいなかったため、私のこんなパソコンの相談相手になってくれたのは、視覚障害者のためのソフト開発と、パソコン機器の販売をやっている会社に勤めていた同じ盲学校の先輩だった。
その先輩にパソコンのことを教えてもらいながら、いろいろと話をしていくうちに、私の心はパソコンに関する仕事をしたいという方向に傾いていった。
私が今パソコンを買ったばかりで、使い方が分からなくて困っているのと同じように、他の人も実は相談できる人がいなくて、パソコンという便利な道具の使い方に悩んではいないだろうか?
そして、鍼灸按摩マッサージの仕事よりも、私には好きなパソコンと向き合いながら、人とふれあうことのできる「パソコンインストラクター」の方が向いていると感じ始めていた。
 そんな思いを確実にしたのは、とある会社から届いた1通のパンフレットだった。
そのパンフレットは、視覚障害者向けのパソコンサポートと販売を専門に行う会社を作ったので、是非利用して欲しいという内容だった。
ところが、その内容よりも私の目を引く1行があった。
「有限会社○○ 代表取締役 ○○」
この名前のところに入っている文字を見て、私は一瞬固まってしまった。
その名前は、今まで私のパソコンの質問に答えてくれていた、同じ盲学校の先輩の名前だったのである。
「全盲で同じ学校を出た人が、それも私の信頼する先輩が社長になったんだ。私にだってやれば自分の好きな仕事ができないわけがないじゃないか」
私はそう思った。
そしてパソコンの仕事をするためには、もっと専門的な知識と技術を身につけたいと思った。そのためには、今の学校にいたのでは、絶対に進歩の早いこの業界の動きにはついて行け無いとも感じた。
 次の日、私は学校に着くなり放送部の顧問の渡辺先生を捕まえて、
「先生、筑波技術短大行きたいんですけど、どうしたらいいですか?」
と聞いていた。
実はその前の年、つまり1997年度の卒業生の中に、筑波技術短期大学の情報処理学科に進学していた先輩がいて、その年の担任の先生が渡辺先生だった。
大阪にも視覚障害者がコンピュータ技術を学べる機関があるのだが、隣の県と言うことと、短期大学卒業の資格が取得できると言うことで、私は前の日の夜の家に自分で勝手にこの学校に進学すると決めてしまっていた。
いきなりのことで先生もびっくりしたらしかったが、
「あんた、本気ならちょっと調べておいてあげるから、今日の午後放送室の奥の部屋にきなさい」
と言ってくれ、その日の午後に詳しい話を聞くことになった。
それによると、私がこのままの成績を維持していれば、推薦を出せる可能性も無いとは言えないとのことだった。
筑波技術短大の情報処理学科の就職率は高く、ここに行けば私の目指している仕事に就くことは可能ではないかとも言ってくれた。
そこで早速私はその日の夕食の時間に、
「俺、来年筑波の技術短期大学に行きたい」
と宣言した。
 それに対して両親は、
「鍼灸按摩マッサージの資格を取ってからでも遅くない。盲学校の専攻科を出てからそこに行かせるから、来年は盲学校の専攻科に行きなさい」
と言った。でも、私にはその3年間がとてももったいなかった。
結局それから私は何週間かかけて両親を説得し、
「もし学校を卒業するときまでに次の就職口が見つからなかったら素直に盲学校に入る」
という条件で、何とか受験を認めてくれたのである。
 実はこのとき、私は渡辺先生にはこのことを相談していたものの、他の人には全く相談していなかった。もちろん担任の石井先生にもである。
そこでそれから1ヶ月程度たった6月10日、掃除の時間でクラスメイトが教室を出て行ったのを見計らって先生を捕まえ、
「あの、ちょっとお話があるんですが、実は来年から筑波技術短大に行きたいんです」
と宣言した。そのときの先生の驚きようはすさまじいものだったが、
「おまえが本気なら、先生できるだけそれがかなうようにがんばってやるさ」
と言ってくれた。そして、7月前半に行われる期末試験の結果次第では、推薦状を書いてくれると言ってくれたのである。
それからの私は、今までには無いほど一生懸命勉強した。
初めて徹夜で数学の勉強をやったのもこのときだったし、バスの中でも教科書を開いて英語の単語を覚えていた。
その甲斐あって、めでたく私は推薦をもらうことができ、その年の11月、筑波技術短期大学の情報処理学科への進学が決まった。
そのときは大学でこんな目に遭うとは全く思っていなかったのだが・・・。

おまけ


 あれからもう3年が過ぎた。
当時使っていたパソコンは故障してしまい、もうどこかにいってしまったとばかりあきらめていたのだが、今日このエッセーを書きながらちまちまと探してみると、私のハードディスクのの奥の方に、そのときに筑波技術短大に提出した「志望動機」なるファイルが出てきた。
懐かしいのでここに記念に掲載しておきたい。

志望動機


 私は以前からコンピュータに大変興味を持っていました。そして、将来は情報システムの技術を身に付け視覚障害者の為のソフトウェア開発の仕事に就きたいと考えています。
そのためには、視覚に障害を持っていても十分に勉強できる学校に入学しなければならないと思い、担任の先生や進路指導の先生に相談しました。
先生方は私の進路を実現するには貴校に入学するのが良いのではと話してくださいました。また、貴校の大学説明会に参加するように勧められました。
 そして実際に貴校の大学説明会に参加し、貴校が私にとって魅力的な学習の場であると思いました。
その理由として第一に、学習環境が大変整っていることです。
講義室、実習室、卒研室では一人一台のパソコンシステムで学習できること。
また、図書館には電子図書閲覧室があり、全盲であっても十分な情報収集がすぐにできること。
更には学内ネットワークによって、参考書や辞書が学内のどこからも使えること。
どれをとってもまさに理想的な学習環境と思いました。
そして第二には、個人面接で就職に関しても丁寧なご指導のもと、多くの先輩達が幅広い分野で活躍していると伺ったことです。健常者でさえも就職困難な今に於いて、このことは本当に心強く感じました。
このようなことから、私は是非貴校に入学し学習したいと考えました。貴校でしたら私の進路の実現ができると思い、情報処理学科を志望しました。


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