寄宿舎生活から自宅からの通学に切り替えた私だったが、前の項で書いたようないいことばかりあったわけではない。
それは高校3年の9月頃だったろうか、宮野橋から地元のバス停に向かうバスの中での出来事だった。
いつもバスの後ろの方で騒いでいる不良軍団が、珍しく私に席を譲ってくれた。しかし、そのときから私への嫌がらせが始まった。
こいつらは私がちょっと安心した隙に、人の鞄を開けて中のものを取り出してみたり、酷いときには私がうとうとしていると、自分の靴を脱いでその中のにおいをかがせたりと、さんざんな目に遭ってしまった。
もちろん私も奴らの声が聞こえるとそちらの方には行かないように注意したのだが、奴らは席を譲ってくれるふりをして、人が見ていないところでそういうことをやるので非常にたちが悪かった。
席を譲ってくれているのに断るというのは周りから見ると
「この視覚障害者の人、せっかく席を譲ってくれているのに、座らないなんて失礼だ」
と思われる可能性があるし、「席譲ってくれていますよ」といって誘導してくれる人までいるので、逃げるのはかなり大変な状況だった。
私に対する嫌がらせは、それからも毎日のように続いた。しかし、殴られるとかそういうことはなかったので、何とか堪え忍んでいた。
もしこれに耐えられなければ寄宿舎に戻らなければならないと思ったからこそ、私は我慢できたのではないかと思う。
ところが、そんな生活を続ける家に、私は左の耳が聞こえにくくなっていることに気が付いた。
最初の家は「なんだかおかしい」程度のものだったのだが、それは日を追うごとに悪化していき、とうとうある日、朝起きてみると左の耳がほとんど聞こえなくなってしまっていた。
視覚障害者にとって片耳が聞こえなくなると言うのはかなりの重傷だ。しかし、こんなことを両親に話したら心配をかけると思い、その朝は
「なんだか左の耳がおかしいから、帰りに耳鼻科に連れて行って欲しい」
とだけ言って、学校に向かったのである。
その日の午後、耳鼻科に行って聴力を測定してみると、やはり私の左の耳は、ほとんど機能しない状態になってしまっていた。
耳鼻科の医師は、聴力測定結果を母に見せながら、
「これはほとんど間違いなく今流行している精神性の難聴です。
人間は極度のストレスを感じると、耳が聞こえなくなることがあるんです。
何か原因があるはずですから、それを取り除いてください。」
と言って、精神安定剤のような薬を処方してくれた。
母は心配して私を問いただしたのだが、やはりこれ以上心配をかけるのはいやだったので、バスの中でのことを打ち明けることはできなかった。
でも、その夜のこと、私はとうとう一人では抱えきれなくなって、このことを当時の彼女Mに打ち明けた。
今までは心配をかけるといけないとおもって、誰にも話していなかった。しかし、このとき話したことで、今まで自分の中に抱え込んでいた不安や悔しさや怒りといったものが、少し抜けたような気がして、かなり楽になった。
そして彼女は、「もしできるんだったら通学経路変えたら?」とアドバイスしてくれた。
そうだった、何もこの経路で通わなくても、違う会社のバスに乗って石橋という駅まで行って、そこから電車に乗り換えて宇都宮駅まで行くという経路があったのだ。
事実私の大先輩のYさんは、この経路を使って職場に通勤しているということを、そのとき私は思い出したのだった。
でも、通学経路を変えるからには、やはり両親にバスの中でのことを打ち明けるしかなかった。
それから両親には結局心配をかけることになったが、次の日には私は通学経路を変える決心をして、3日後にはそれを実行していた。
このことで通学時間は少し延びてしまったが、今までのように不良に絡まれることはなくなった。
ところが耳の方はなかなか良くならず、完全に元の状態に戻ったのは4ヶ月後である、高校3年の2月のことだった。