BLPCの始まり


 私には前の彼女Mから紹介された、4つ下の弟子みたいな女の子がいる。
そいつとは高校3年の12月からのつきあいで、今でもしょっちゅう電話したりする。
この日記でよく登場しているピヨマルだ。
 その日私は、いつものようにピヨマルとパソコンの直し方について、
「あのさぁ、このソフトはどうやったら動くんだろうな」
とか、「これってどうやって設定するんだろう?」
などと、休みの日の暇に任せてお得意の長電話を楽しんでいた。
私たちの長電話は波半端なものではなく、休みの日になると毎日2時間以上、東京都筑波で話をしていたから、電話代が馬鹿にならなかった。
そんなことはどうでもいいのだが、そのとき私は何気なく、
「おまえさぁ、パソコン始めたばっかりのころって、誰に教えてもらった?」
「誰も教えてくれなかったよ。だって、私の周り目の見える人ばっかりだし、小学生の頃だったからパソコン詳しい人なんていないしさぁ」
「やっぱりそうか。俺も同じ同じ。ここまで来るのに何回パソコン動かなくなってさぁ、ぶっ壊してやりたくなったか分かんねぇ。」
「他の人、どうしてるんだろう。もしかして同じだったりして」
「俺は最終手段、パソコン買ったところに電話かけて聞いてたから、他の人もそうなんじゃないの」
「私も電話はかけるけど、土日困るよ。電話しても『本日の営業は終了しました』って言われるもん」
「たしかにそりゃそうだ。」
「ねぇ、こうなったら二人でメールで土日にパソコンの質問受け付けない?この前さぁ、どっかのメーリングリストにそんな離し出てたよねぇ。あれってお金取られるみたいだけど、うちら無料でそんなことやろうよ」
「よし。やるか。」
こんな具合で、とりあえずピヨマルと私は、二人でメールによるパソコンサポートの受付を始めることを思いついた。
しかし、それからいろいろと相談していくうちに、メーリングリストへのパソコンに関する質問の登校状況を見ていて、二人だけではどうしてもこれはできないことだと分かった。
そのとき私たちがちょっと自分のメールボックスを覗いただけでも、受付を始めると二人ではとても裁ききれない寮の質問メールが来ることは確実だった。
そこで、私たちはこのメール受付窓口に「ブラインドパソコンサポート」という名前を付け、会員を募集することにした。
しかし、その中に説教の好きなおじさんや、口うるさいおばさんが入ってきてしまったらやりにくいと考え、ブラインドパソコンサポートのメンバーは「学生でなければならない」というルールを作った。
また、「ブラインドパソコンサポート」では長くて覚えにくいと思い、「Blind(ブラインド)」と「Personal computer(パソコン)」の頭文字二つを取って、「BLPC」という略称を付けた。
はじめは「BLPCS」と使用とも考えたが、これをどう発音していいか考えつかず、アルファベットなら4文字の方が響きが言いということでBLPCとなった。

 そんなこんなで高層階死から1ヶ月を過ぎたその日、私たちは最初のメンバー募集のメールを視覚障害関連のメーリングリストに登校した。
するとすぐに、一人の男性から応募があり、また、その後にピヨマルの友達のたん君が入会したことで、BLPCは4人のメンバーでスタートを切った。
サポートの受付を本格的に開始したのはそれから1週間経過した日曜日のことだった。
 筑波技術短大のMS-DOS中心だったカリキュラムに嫌気がさし、この大学にいる意味を見失っていた私にとって、このBLPC結成はかなり大きな支えになった。
「自分たちも人の役に立てることがあるんだ」
こう考えるだけで、BLPCの活動は楽しかったし、パソコンという自分の一番得意な分野で活動できると言うことが私たちに気合いを入れている。
 もちろん今でもBLPCの活動は続いている。
サポートセンターにはたくさんの質問メールが来るし、それに答えるのはなかなか面倒な床もある。
でも、「おかげでこれができるようになりました」とか「ありがとうございました」などのメールをいただくたびに、本当にこのときBLPCを作って良かったと思う。
そして、これからも少しでもパソコンのことで困っている人の役に立てればと思っている。


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