町長に直談判


 物部保育園に通う生活もそろそろ1年になろうとしていた3月、私の両親は耳を疑うような知らせを耳にした。
それは、物部保育園が、町の「交通安全学習保育園(正確な名前は不明)」の指定を受けたというのである。
 この「交通安全学習保育園」というのは、子供達に信号や交通標識を学習させることにより、交通事故防止に役立てようという取り組みで、園児らは園内各所に設置された標識を目印に、止まる練習や信号の見方などを学習するというもだった。
私は目が見えないので、そんな各所に設置された標識やモデル信号などを見ることができなかったため、このままいくと除け者になってしまったり、下手をすれば平気で園内の規則を破るならず者になってしまう可能性もあった。
そこで父と母は、保育園の園長先生と掛け合ったり、町役場と交渉したりといろいろこれに関しての反対運動を行って、何とか私がこのまま慣れた保育園にいられるようにがんばってくれた。
ところが、町からの回答は
「お宅のお子さんのためだけに、町の方針を変えるわけにはいかない」
というものだった。
 そこで頭に来た父と母は、思い切って当時の二宮町長に直接会って直談判をすることにした。ところが、やはり回答は変わらず、挙げ句の果ては
「それでは別の保育園に移動すればいいじゃないか」
とまで言いだしたという。その後もいろいろとあったらしいのだが、ともかくこのままではしょうがないということで、私はその春から家からすこし離れたところにある、「二宮保育園」に通うことになった。
 実はこのときから私の記憶がうっすらとある。
私はいつものように、保育園に行くために母の運転する車に乗って出かけたのだが、着いたところはいつもと全く違う場所だった。
そして「おはよう」と話しかけてくれた先生は、いつもの原村先生とは全く違う声だった。
そして、私の周りにいた大好きなお友達がいなかった。
「どうして今日は保育園行かないの?」
と母に聞いたような気がする。
そのとき母がなんと言ったかは覚えていないが、当時の私は何で保育園が変わってしまったかなどということは全く気にせず、新しい保育園にもすぐに慣れ、友達もその日のうちにできるようになった。
 このとき私が入学したクラスは鳩組、担任の先生は佐藤麗子先生だった。私は正直言って、この先生にはあまり暖かみを感じなかったように覚えている。この先生はすぐに怒る先生で、暴力をふるうことはなかったのだが、そのときの言葉がけっこうきつい人だった。別に悪い人というわけではなく、ちょっときつめのおばさんだったということだ。
 今でもはっきり覚えているエピソードがある。
二宮保育園のある公家他地区というところは、二宮町の中でも一番栄えているところで、保育園の前の道路はしょっちゅうダンプカーが行き来していた。
実はこの辺りは私の家のある物部地区とは全く違う。その違いの一つに、両親の仕事内容がある。
物部地区は昔からイチゴの生産が盛んで、ほとんどの人が農業を営んでいた。しかし、公家他地区では「お父さんが会社員」という人が少なくなかった。
そんなだから、実家の方とは微妙に言葉までも違っていた。特に保育園の休みの日には、曾祖父に遊んでもらうことが多かった私は、完璧な栃木弁(正確には二宮弁)をしゃべり、田舎丸出しの坊やだった。
それはある時、先生に
「先生、ぼぐのマジックどっかおっこっちゃった。探してくろ」 (先生、僕のマジックがどこかに落ちちゃった。探して。)
と言ったとき、いきなり先生が怖い顔になって、
「くろなんて、お口曲がりな子だこと。悪い子だ」
と怒られてしまった。
帰って父と母にそのことを話すと、この辺の子と町の子では言葉が違うこと、この辺の言葉はたまに怒られることがあることを教えてくれた。
私はそんなことを聞いても悪いことをしたという実感は全くなく、何もしていない私をしかりつける先生に大きな嫌悪感を抱いたことを今でもはっきりと覚えている。


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